映画「君たちはどう生きるか」備忘録

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このタイトルと正面から向き合ったのは、実に10年ぶりである。当時はまだ漫画版も出ておらず、世間からの注目度は今よりも随分と薄かったのであろう。だが私はその頃にこの本を読むこととなる。課題図書として学校から出されたのが何を隠そうこれの感想文であったからだ。

残念ながら当時読んだ記憶は全くと言っていいほど今は残っていない。そんな「君たちはどう生きるか」と久しぶりの対面を果たすことになったきっかけは宮崎駿の同名映画なのである。

私は主流に乗るのが苦手な人間で、なかなか世間受けのいい映画、特にファミリー層向けの映画という印象を持つことの多い宮崎駿作品を見るという機会を積極的には作ってこなかったし、本作についても当初はあまり見るつもりがなかった。ただこれらが話題となった7月13日、タイトルが10年前に読んだ書籍のタイトルというただその一点だけが、私をこの作品の鑑賞を決意するきっかけとなったことは言うまでもないだろう。結果この作品を鑑賞後、久しぶりに原著を読みたい衝動に駆られ、三省堂に駆け込むこととなってしまった。

この記事はネタバレも織り込みつつ、この映画を鑑賞してどのような感想を抱いたかを綴った備忘録として、かなり硬い文体でまとめていきたいと思う。考えがまとまっていないし、原著をまだ読み直していないため不正確な部分があるとは思うが、これが「思考の欠片」であることに留意してこの先を読み進めてほしい。また、今回この映画のプロモーションがほとんど行われていないことからもわかるとおり、前提のない中で「君たちはどう考えるのか」を重点に置いた映画だと思うので、もし見る予定があるひとはなるべく早く、こんな感想を読まずにまずは映画館へ向かってみることをお勧めしたい。

まず、小説の「君たちはどう生きるか」がどのような経緯で出版されたのか時代背景をきちんと抑えておこう。この小説は1937年に吉野源三郎が日本少国民文庫シリーズとして子供向けに執筆された書籍群の一編として制作された。この時代は日中戦争が勃発した直後という時代としてはかなり暗い時期である。太平洋戦争が始まる1941年よりは4年も前なので、執筆当時はまだそれほど大変な時期ではなかったのかもしれない。内容としては「15歳の少年が、ものごとを純粋に冷静に観察して思ったことを叔父と話し、叔父がそれを『ノート』に書き綴りそれについて語る」という体裁を取った本である。

映画の話に戻ろう。実はこの映画と小説には直接的に関わっているシーンは僅かにしかない。ド真面目な主人公が偶然見つけた亡くなった母親からのメッセージ付の書籍の一つがこれであり主人公がこれを読むというシーンで一瞬出てくるだけだ。ただ、この本の背景設定を本作では援用しているように見受けられた。具体的には「母親が死んでいる(書籍では父親)」、「都心から郊外に引っ越している」という点などである。この辺りは原著を読まないとわからない点だろう。

正直よくわからない部分がたくさんあるという映画ではあった。全体的になるほどと誰もが頷けるような構成とはなっておらず、余白をかなり残しつつアオサギをきっかけとして幻想世界についてを叙述するシーンが延々と続くという映画構成になっているからだ。延々…と表現しているのは刻々と変わる世界観に主人公は割とただ流されるだけではあるので、物足りなさを感じてしまったからでもあろう。メッセージ性は強いが見る人によって感じ取るものが大きく変わるまさに「君たちはどう感じるのか」を大事にする映画である。

特に私がよくわからなかったのは「我を学ぶものは死す」の先にあったものは何か(なんかこれ、文豪とかでよくある、自分自身を見つめ続けると死んでしまうとかそういう系な気もする)と「ナツコ」が現世へ戻ることを拒絶するようになった理由が釈然としなかった。この辺りは他の人の考察などをどこかで見られたり聞けたりすると良いなと思う。

この映画のメッセージとしては主人公のようなド真面目な人間が戦後の日本にも残りましたよ〜という「君たちはどう生きるか」精神の継承がメッセージとして効いてきているような気もしている。今この映画を出す意味というメタな視点で考えても戦後を引き合いに出すことで、現代の不確実な世の中でも自分でものごとを考える精神を持ち続けることの重要性を宮崎駿は訴えたいのかと思った。これを考えるにあたって主人公が現世に戻ったタイミングがどこだったのかも気になるところだ。あの世の世界観が崩れたタイミングで現世も実は終戦によって崩れていたというリンクが成立するのであれば主人公は戦後に飛んでいてもおかしくはないはず。元の世界に戻されているしここの時間軸はずれていないのかな…?とここは釈然としない。

近年の映画の流行なのか、それとも偶然の一致なのか、ジブリを連想させる表現が時々見え隠れする新海誠作品と同様の構造が読み取れたように思う。具体的には「すずめの戸締り」でもあった異世界(死者の国)で主人公が自分との過去と出会うといったシーンとである。本作でも「将来の主人公の母親(ヒロイン)」が「主人公」と異世界で出会うという設定はまさに先程のすずめの〜とほとんど似通っているし、劇中でも「ここは地獄」「死者の幻」のような発言からもここは死者の国であることがわかる。また、勿論このジブリ作品自体も2017年あたりから動き始めていることから直接の関係はないと思われるが、最近の作品に共通する潮流なのかもしれない。

「夢」の設定でよくある「離れるとだんだん忘れてしまう」というコンセプトが今作でも出てきた。そういえばこの設定「君の名は。」でも出てきましたね。新海誠と気が合いそう。結局ヒミが主人公に「火事で死ぬ」と言われても「自分は大丈夫」と言って現世へ帰っていく(別の時代)シーンはこの設定を踏まえるとなかなか残酷な死に方をするのかなと思った。

世界観の表現では面白い解釈も見られた。作品中盤でジブリでよくあるかわいいちっこいキャラクター、今回はpovoのような白いキャラクター(ワラワラ)が出てきたがこれは「生まれる前の命」であった。こいつらは成熟すると空へ飛んでいき(今回の異世界は地底世界という設定らしい)、人間の赤ちゃんとなって現れるという。途中大量に出てきた飢えたペリカンが久しぶりに飛んだこのワラワタを大量に食っていき本来生まれるはずだった命が誕生しないというシーン。時代設定が1944であることを考えると太平洋戦争中の出生率低下の理由付けにもなっている。死者の国と現世が二項対立で存在する世界線の解釈がとてもうまくできているのは面白かった。

「ペリカン」と「アオサギ」と「インコ」。今回物語に出てくる主要なキャラクター群であったがなぜこの3つが選ばれたにであろうか。ペリカンはコウノトリのイメージからその対立対立項として登場させたような直感はあったが、調べても「自己犠牲の象徴」くらいしか出てこなかった。インコがあそこまで獰猛なキャラクターで登場したのは不思議ではあったが、「喋る鳥」という不気味さから来ているのかもなと仮説を立てたり。アオサギは比較的身近だけどデカくてちょっと不気味な鳥なイメージが自分の中でもあったのでこの辺りなのかなという気がした。まあアオサギがカラスとかスズメとかハトとかだとなんか…面白くないし。獰猛なインコも所詮は「死者の国」での姿であって、現世へ「生まれる」と普通のインコになるのは少々不気味であった。

本作において大叔父の世界の終焉というのも映画を通したひとつのキーポイントだろう。積み上げた積み木を崩れないようにするというのは、それこそ近世や現代社会を体現している。「これで一日は大丈夫だ」のセリフからもわかる通りそのアンバランスさは「一日」持たせるのがやっとだったのである。実際現代社会も「今日一日」大丈夫かどうかしか保証されていない(否、それも保証されていない可能性すらある)わけでありそれほど綱渡りな世界である。終盤で適当に積み上げた積み木が崩れて世界が崩壊してしまうシーンは第二次世界大戦における世界の一種の終焉を示唆していたのだろう。事実世界史でも稀に見る大惨事になっていたわけであるし、つまりこれは大叔父が築いたであろう戦争を拠り所に財を成す世界システムが崩壊してしまったと言い換えることもできるはずだ。

描写面での注目ポイントは「ばあさん」の描写方法であろう。明らかに2種類のばあさんが出てくる。1つ目は割と主人公と同じ描写方法のばあさん。もう一つが湯婆婆のような「強調して描かれたばあさん」である。これは鑑賞者に「不気味さ」を植え付けると同時に「キーパーソン」であることを暗示しているはずだ。

雑多に感想をあれこれ書いてきたが、個人的に総合的に評価すると今ひとつ刺さらない映画ではあった。伏線回収が行われない描写が所々あった点、いきなり突き放されて終わる終盤というこの2つが大きな要因であっただろう。全体を通して見るとさまざまな考察しがいはあるので一度は見るといい映画なのではないかなと思う。ここまで読んでる読者に言うことでもないが、「事前告知をほとんどしない」と言うジブリの方針からもわかるとおり、事前知識を詰め込まない状態での鑑賞を改めて強くお勧めして本稿を終わらせたいと思う。

P.S. こう、真面目に感想を網羅しようとするとすごく長くなった。普段ブログが書けない理由もこのコストの高さなんだろうなと実感した今日である。反省。

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